高エネルギー加速器研究機構 素粒子原子核研究所 点字本プロジェクトポータルページはこちら
※点字と触図の電子ファイルは、視覚障害のある方やその他の関心のある方に向けて無料で提供されます。
https://www2.kek.jp/ipns/ja/braillebook_project/
――まずは、点字本プロジェクトに関わられた本学の皆さんとそれぞれの役割を教えてください。
宮城先生:このプロジェクトは2022年4月に始まりました。
石原学長と高エネルギー加速器研究機構(以下、KEK)の機構長との間で、何か取り組みができないかということになったようで、寝耳に水状態で話が降ってきまして(笑)
視覚障害系の支援研究部で、普段学内の点訳業務を担当するメンバーで取り組んだ方が良いのではと言うことで、今回の5人が関わっていくことになりました。
納田かがりさん(視覚障害系支援課 情報保障支援係 技術専門職員)は普段から点訳やテキストデータの作成、DAISY図書など様々なメディア変換のコーディネート業務を担当していて、今回は触図の作成・印刷に関する調整や広報、KEKとの費用面を含めた調整、完成した触図版の全国発送などを担っていただきました。
実際の点訳やテキストデータの作成をするのは教材作成室という部署で行っていまして、その中のリーダー的存在で、取りまとめをしている野澤しげみさん(障害者高等教育研究支援センター 研究員)に点訳・触図作成の実務を担っていただきました。
教員は私を含めて、田中仁先生、金堀利洋先生の3人が関わりました。プロジェクト全体の監修に加えて、触図作成に対して様々なアドバイスを行いながら進めていきました。田中先生には、野澤さんが作成した点字や触図を実際に触っていただき、細かな部分について具体的な助言をいただいています。ユーザー視点で、実際にどう読まれるか、十分に内容を伝える図になっているのかなど、貴重なフィードバックをくださいました。金堀先生は、企画段階から深く関わってくださっていて、発行形態やフォーマットに関するアイディアをたくさん出していただきました。構成の土台づくりという面でも、大きな力になってくださっています。
――このお話が来たときの印象を教えてください。最初からこういう「点字・触図を大切にして、伝えるための本」を作るというコンセプトで話が来ていたんでしょうか?
宮城先生:石原学長からトップダウンで降ってきた話でしたが、KEKの素粒子原子核研究所の齊藤所長がとても前向きに乗ってくださっていたんですね。でも私たちはこんな大きな機関と一緒にお仕事をすることがこれまでなかったですし、最初は結構消極的なところからスタートしたんです。
お手本にしたのは、以前本学で教鞭を執られていた長岡英司先生(現 社会福祉法人日本点字図書館理事長)の「天文学入門」のマルチモーダル図書(※)作成プロジェクト(2007~2008年)でした。こちらは天文学についての入門書を京都大学の先生など専門家と一緒に執筆しながら作成していったものですが、同じことをもう一回再現できるとは思えなくて…。ですが、KEKの皆さんにぐいぐい引っ張られて形にしていった、という感じです。
※マルチモーダル図書:複数の媒体(テキスト、音声、点字など)を組み合わせて構成された図書のこと。
参考:天文学入門 発刊にあたって
https://www.ntut-braille-net.org/topics/Introduction_to_Astronomy.php
――そうなんですね。そこから点字本の制作はどのように進められていったのですか?
宮城先生:まず、KEKとのご相談の中で「点字本を作成する」という方向性が決まりました。内容は高校生の物理を前提とした書籍とし、執筆は素粒子原子核研究所の研究者の方々により2022年9月頃から始まりました。
その後、原稿が順次こちらに届きはじめ、私たちは点訳作業を進めていきました。2023年の夏頃には点訳がほぼ完了し、点字ユーザーの方々に点字版を試読してもらいながら、ようやく触図の制作にも着手することができました。
書籍の編集・校閲に伴う修正も多く、出版社との連携を通じて、点字データの変更作業も並行して進めました。そして、2024年3月後半には講談社ブルーバックスから書籍が発行され、全国の書店で販売が開始されました。そこからほぼ1ヶ月後には点訳・触図版も完成し、5月に正式に発刊することができたんです。点字はデータで配布していますので、点字機器をお使いでしたらどなたでもご覧いただける形になっています。触図もPDFで公開していますが、立体コピー機をお使いの施設などで出力されることを想定しています。
納田さん:最初はすいません、実は本当に形になるのかなって思っていました…。
でも毎週プロジェクトのメンバーで集まって作業を進めていくなかで、どんどんできてくるのがすごいなって思っていました。
野澤さん:触図は最初2つとか3つとかの話でしたよね(笑)
なんか増えてきたなーと思いながら作成を進めていて、出版社の編集・校閲が入ってからは「ここに図が欲しいです」とかどんどんリクエストが来て。また増えるの?!みたいな感じで対応していきました。最終的には30個以上触図を作ったのですが、こんなに図がたくさんになるとは思いませんでしたね。
宮城先生:通常、出版されている書籍を点訳する時には、文章での説明に任せることが多いので、「図省略」として触図を作ることはあまりないんです。
田中先生:僕はね、本当はあんまり図の表現まではしてくれなくてもいいんです。だけど点字も表現力を持った方が素晴らしいので、それを意図して進めましたね。点字表現の可能性を信じて、我々はその追求を目指して仕事していますから。
――触図の制作は本文が概ね完成して、出版社の編集が始まってからだったそうですが、実際の作業を振り返っていかがでしたか?
野澤さん:普段は教科書や書籍を「読む立場」で点訳をするのが基本なのですが、今回は著者の方とやり取りしながら進めることができました。図のデフォルメ(強調したい部分だけに絞って簡略化するような調整)を著者にお願いしたり、図の意図や解釈を直接聞けたので、その点ではとても助かる作業ではありました。
ただ、テーマが科学・物理だったので、私自身はあまり馴染みがなく、基礎知識の面で少し大変なところもありました。
田中先生:視覚的にわかりやすく描かれている図でも、それをそのまま触図にするとほとんど伝わらないんですよ。だから、どこをどう表現するのかを考えていく作業が難しいんです。普通なら、点訳をする僕らの知識をもとに判断するしかないのですが、今回は著者に直接確認できたからね。
野澤さん:複雑な図も「この図で重要なのはどこですか?」と著者に確認したうえで、必要な部分だけに絞った簡略図を提供してもらえるケースもありました。
宮城先生:今回の書籍の編集長であるKEKの藤本順平先生が、とても柔軟に対応してくださったんです。藤本先生は専門的な内容を分かりやすく伝えることに強い熱意を持っておられて。田中先生をはじめ、視覚障害当事者の意見を受けて「それ、採用しましょう!」と即座に判断してくださることも多く、非常にありがたかったですね。
野澤さん:元の図が立体的に描かれたイラストもありました。最初にいただいたデータを元に、「この重なっている丸は全部必要ですか?」とか、「立体的な表現は必要ですか?」「色分けには意味がありますか?」といった確認を何度も重ねました。
宮城先生:その点も、藤本先生が「そこは色いらないです」とスパッと判断してくださるので助かりました。「これは普通こういうものなので、そのまま使ってください」と言われると、それ以上のデフォルメは難しいですからね。そういう“触図にするうえでのハードル”を一つ一つ乗り越えていくことができました。
書籍全体が整ってきた段階で、出版社による校閲も入りました。すると細かな修正が多数入り、出版直前の1ヶ月間は点訳や触図を再調整する作業を繰り返していました。
――発刊までには本当にさまざまなプロセスがあったのですね。触図制作の中心を担っていた野澤さんは、点訳のスキルがあってこのお仕事に就かれたのですか?
野澤さん:いえ、私は何者でもないんです(笑)。もともとは情報系を学んでいて、卒業後すぐに技大で働き始めました。教材作成室には当時、触図作成を専門にしていたベテランの方がいらっしゃって、「花子」というグラフィックソフトを使って図を描いていたんです。
その方が退職されるタイミングで、世の中に「エーデル」という触図作成支援ソフトが登場しました。その流れで新しい図を作る必要が出てきた際に、「若い人のほうが柔軟に対応できるだろう」ということで、私が触図を担当することになりました。
実際、発泡インクや立体コピーで作る図は、Wordや花子、あるいはお絵描きソフトでも、白黒の実線と点字が入っていれば読む方には届きます。そうなると、求められるのは「パソコンが使えるかどうか」なんです。今は私を含めて7人のスタッフで対応していますが、他の点訳者の方々は点訳からスタートして、あとからパソコンに慣れていった方が多くて、Windowsは使えるけれどWordは未経験、Excelも知らないという方がほとんどでした。
その点、私はもともとパソコンのスキルがあったので、自然な流れで触図担当として作業を進めるようになりました。
――そうなのですね。ちなみに今回の触図集印刷はすべて技大で行われたのですか?
納田さん:確認用の段階では学内で印刷していましたが、何百冊という部数になるとさすがに作れないいので、最終的には印刷会社に依頼しました。
田中先生:今回、点字版の本文データはダウンロード形式で提供しています。ただ、触図は立体コピー機という専用の機器や用紙が必要になるため、視覚障害者それぞれが各自で印刷したり、データを開いて確認することができません。だからこそ、印刷された触図集を提供することに意義があると考えています。
実際、この一冊を印刷するだけでもそれなりに費用がかかっているんです。
納田さん:1冊につき約1万円かかっています。それを300冊作成して、全国の盲学校、視覚障害者情報提供施設(点字図書館など)、さらに全国の国立大学の図書館に寄贈しました。
宮城先生:今回の触図は、「立体コピー」と呼ばれる手法を用いて作成しています。特殊な紙に印刷した上で、機器を使って図を半立体的に盛り上げるという方法です。費用については、学内の予算に加えて、KEKからの支援もありましたし、一般発売されているブルーバックス書籍の印税も活用させてもらっています。
田中先生:通常の触図は墨字(目で読む一般の文字)の印刷がなく、点字と図だけが白く盛り上がっているケースが多いんですよ。今回の触図は墨字印刷も加えていて、一部には図のカラー印刷も施しています。
野澤さん:今回は扱っている内容がかなり難しいので、視覚に障害のある方が触っているところを、隣にいる晴眼者が見て理解できるような仕様が重要だと感じました。だから、墨字と点字の“ドッキング”の形で作っています。
簡単な触図であれば、描かれた線を見て「この辺を読んでいるかな」とある程度の推測ができるのですが、今回は少し触る場所が違うだけで、何が示されているのか分からなくなるような図も多かったんです。なので、墨字と点字をセットで、晴眼者と同じ目線で理解できるような作り方をしています。
――本当に細部までこだわりが込められているんですね。今回、KEKとのつながりから大阪・関西万博2025への企画にも発展したそうですね?
宮城先生:ええ、すべてはKEKのスケールの大きさから広がったものです。KEKは非常に幅広いネットワークを持っていますので、著名な方が集まる企画が進められる中で、今回ご一緒した素粒子原子核研究所長や関係の先生方が、このプロジェクトを通じて「研究成果や量子・宇宙の話を、障害のある方を含む幅広い人々に伝えたい」と、そう感じられたそうなんです。それを聞いて、私もとても嬉しかったですね。
また、ちょうど本学でも共生社会創成学部が4月から始まったことをお伝えしたところ、「この点字本プロジェクトが社会との接点を考えるきっかけになった」とKEKの方がおっしゃっていて。必ずしも障害に関連させる必要はないはずの万博企画の中で、少しでも私たちの取り組みがヒントになったのなら、それはとても光栄です。
今回の万博では、「エンタングル・モーメント展」というステージ企画があり、文部科学省が中心となって進められています。「見えない世界を知るために―量子・宇宙」というテーマの下、4人の登壇者によるクロストークも予定されていて、私もその中で点字本プロジェクトの紹介をさせていただきます。会場では、触図のサンプルも来場者の方に触っていただく予定です。
今回の点字本には、本学で蓄積してきた点訳ノウハウを活かした知恵と工夫、そして関係するメンバーの強い情熱が詰まっています。前編ではその経緯や想いについて振り返りましたが、後編ではいよいよ、制作現場の裏側へと視点を移します。
見えない世界を触って伝えるために、どんな試行錯誤が積み重ねられたのか。図の“見えにくさ”とどう向き合い、誰もに「伝わる」形を探ったのか。実際の制作プロセスを教えていただきながら、そのリアルに触れていきます。
どうぞお楽しみに。万博で「見えない世界を知る」お話の展開も、とても楽しみです!
万博企画の詳細は以下からご覧ください。
https://www.tsukuba-tech.ac.jp/announcements/2025/07/07001666.html