【私について】
まず初めに、私の簡単なプロフィールの紹介から。
私は先天性の感音性難聴をもって生まれました。難聴と診断されたのは、私が3歳になる前のことです。それから現在に至るまで、聴覚に関するさまざまな経験を通じて、多くのことを学び、感じ、考えてきました。
幼稚部から高校卒業まで、私は聾学校で育ちました。聴者の学校との交流はほとんどなく、行事のときに一緒になったり、保育園に通った経験がある程度でした。家庭では、私以外の家族は全員聴者で、家族構成は、父、母、私、そして妹の4人です。そんな中で、家族は私のために指文字や手話を覚え、日常的なコミュニケーションに取り入れてくれました。私にとってとても心強い存在であり、手話を使ってくれる家族の姿に、深い愛情を感じてきました。
また、私が通っていた聾学校は、どちらかというと聴者文化が強く、校則や生活のルールも厳しい学校でした。今思い返せば、そのような環境で過ごさせてくれた家族、そして日々の生活や学びを丁寧に指導してくださった先生方に対し、感謝の気持ちでいっぱいです。
【私の使用言語について ―第一言語は手話?日本語?―】
私は聴覚障害者であり、聞こえない世界の中で育ちました。コミュニケーションの手段としては、主に日本語対応手話を使っています。手話にはさまざまな表現方法があり、一つではありません。
日本手話は、日本語とは異なる独自の文法や語順、表現方法をもっています。一方で、日本語対応手話は日本語の語順に合わせて表現する手話です。私は幼いころから日本語能力を育てる教育を受けてきたため、自然と日本語対応手話がベースとなりました。
聾学校でも日本語対応手話が使われていたため、私のコミュニケーション手段もその影響を強く受けています。そのため、時々こんなふうに思うことがあります。「自分の第一言語は日本語なのか、それとも手話なのか?」。今では、自分の中では「日本語+手話が第一言語」であると考えています。
【私の幼少期について ―目で見る情報の大切さについて―】
生まれてから幼稚部に入るくらいまで、私は活発な子どもでした。おままごとも好きでしたが、それよりも外で走り回ったり、戦いごっこをする方が好きだったようです。ドラゴンボール、仮面ライダー、戦隊モノなど、アクション系の番組に夢中になっていました。
一方でテレビっ子でもありました。父も母もエンタメが好きな性格のため、よく一緒にDVDレンタル店に通って映画を借りてきては家族で観る、というのが日常でした。特に、アジアのアクション映画や、言葉がなくても笑えるコメディ作品など、視覚的に楽しめる作品が印象に残っています。
思い出深い作品には以下のようなものがあります。
●Mr.ビーン(言葉がなくても笑える!)
●酔拳、蛇拳、少林寺、拳精などのカンフー映画
●幽幻道士(来来!キョンシーズ)
●志村けんのバカ殿様や『8時だョ!全員集合』
これらの作品は、音声が聞こえなくても「視覚」を通じて楽しめる表現が多く、俳優の動きや表情、背景の演出など、視覚的な要素を駆使して物語を味わっていました。今でも「目で見る情報の大切さ」を強く感じます。
また、私は幼少期に聾学校の幼稚部と地元の保育園の両方に通っていました。聾学校では言葉の学習を中心に行い、特に担任の先生が非常に熱心な方で、言葉だけでなく、生きるうえで大切な価値観も教えてくれました。当時は「ちょっと怖い先生」だと思っていましたが、今では大きな感謝の気持ちを持っています。
保育園は、どちらかというと遊びに行くような感覚で通っていたと思いますが、そこで集団行動やルールを自然と学ぶ機会になっていたのかもしれません。
家でも、絵本をたくさん読みながら言葉を覚えていったこと、生活に必要なことを繰り返し教えてもらったことが思い出されます。母によれば、ろう学校の先生から「家庭でも言葉の教育を進めてください」と言われていたため、厳しく指導していたそうです。
今思えば、私はたくさんの人たちから深い愛情を注がれて育ったのだと実感しています。正しいこと、いけないこと、集団行動のルール、そして「言葉」というツール。こうしたものを幼い頃から少しずつ、でも確実に学んでいきました。
【小学生期 ―変化の始まり―】
私は東日本大震災のあった年に、聾学校の小学部に入学しました。
幼稚部とは違って、環境も少し変わり、最初は戸惑いもあったように思います。遊びの要素がだんだんと減っていき、学習の時間が少しずつ増えていきました。
とはいえ、小学1~3年生の間は、勉強よりもまだ「遊び」や「生活」を重視していた記憶があります。もちろん教科の授業もあり、言葉の勉強もありましたが、それ以上に“生きる力”を育ててもらいました。 悪いことをしてしまったらちゃんと叱ってくれた先生たち。学校の中でたくさんのことを経験しながら、のびのびと育ててもらったと思います。聴者との交流は、地元の小学校との交流会などがたまにあったくらいで、普段はろうの友達と過ごしていました。
そんなふうに変わらない日々の中で、私の中に少しずつ変化が訪れたのは、小学4年生ごろからだったと思います。
今思えば、思春期が始まりかけていたのかもしれません。自分と他者との違いに気づき、自分なりに物事を考えるようになり、少しずつ「自分の意見」も持つようになっていきました。それまでは活発だった性格の中に、内気な面も見え隠れするようになりました。「自分には何にもない」と感じるようになり、人と比べては落ち込む日々もありました。
そんな中、私は本を読むことに夢中になりました。小説、歴史漫画、伝記、図鑑など…。さまざまなジャンルの本を読み漁り、自分の中に新しい世界をたくさん広げました。教科の勉強とは違う知識が本から得られたことが嬉しくて、本が「居場所」のひとつになっていったと思います。テレビも相変わらず好きでしたが、見る番組のジャンルも少し変わっていきました。特に冒険やファンタジーの世界観に惹かれるようになったと思います。
そして、小学6年生になるタイミングで、寄宿舎に入舎することになりました。
理由は家庭の事情です。私はどうしても居心地の悪さから逃げたかったのです。今だからこそ言えますが、寄宿舎に入ったのは、ある意味で「逃げ場」を求めてのことでした。
でも、その選択は今でも「正解だった」と心から思っています。学校だけでは学べない、生活そのものを学べましたし、何よりたくさんの人との出会いがありました。
寄宿舎では初めて「家事」や「共同生活」に向き合うことになり、最初はとても苦労しました。でも、友達がいたことで安心感もあり、少しずつ生活に慣れていきました。ルールや集団行動の中で、協力しながら生活することの大切さを体で学んだと思います。
そして、私の人生に大きな影響を与えてくれた出会いも寄宿舎で待っていました。アルバイトとして寄宿舎に来ていた大学生たちです。彼らは近い年齢なのに大人のように見えて、まぶしくて、キラキラしていて、「こんなふうになりたい」と初めて思いました。あの出会いがなければ、大学進学を考えることもなかったかもしれません。私にとって大きな人生のきっかけとなる出会いでした。これは中学生の時も感じていたことです。
【中学生期 ―反抗期と進路―】
小学部を卒業し、中学部へ進学した私は、思春期を越えて、いよいよ反抗期に突入していきました。 内気さだけでなく、大人への不信感や将来への不安、自分が「大人」に近づいていくことへの戸惑いなど、さまざまな感情が入り混じっていました。その感情をうまく整理できずに、周囲にぶつけてしまうことも多かったです。
今思えば、自分自身と向き合うことから逃げていたのかもしれません。家族や先生方には本当にたくさん迷惑をかけました。でも、誰も私を見捨てなかったです。何度でも向き合ってくれました。そのことに今では心から感謝しています。
中学1年、2年の2年間は、私にとって「どん底」の時期でした。
でも、中学3年生になって、すべてが変わりました。それは、新しい担任との出会いがあったからです。
その先生は、今までの先生とはまったく違っていました。「必要なことは教えるけれど、あとは自分で考えて動け」そんな姿勢で接してきました。最初はとても戸惑いました。今まで手取り足取り教えてくれていたのに、急に突き放されたような気がしたからです。
でも、それは突き放したのではなく、「自分で選び、動く力を育てるため」の関わり方だったのだと、今ではわかります。
実際、後からその先生に直接聞いてみたことがあります。「なぜああいう教育方針だったのか?」と。先生はこう答えてくれました。
「自分で納得しないとダメだったから。やはり考えさせて、自分で選ぶ・決めるという習慣をつけて欲しかったんだよ。学ぶことが好きで、自分を高めることに期待感を持てる人だし、答えがはっきりしない問いにもしっかり向き合えるから。」
その言葉が、私にとってとても大きな意味を持ちました。
最初は叱られるたびに悔しくてたまらなかったけど、負けず嫌いな私は「ならば!」と自分のダメだったところを見直し、少しずつ修正していきました。
そして、進路選択を考える時期になりました。最初の私は「高卒で就職する」つもりでした。でも先生に言われました。「このままで本当にいいのか?」
「なんとなくで決めてないか?」「働くって大変なことだぞ。まだ人に甘えているお前にできるのか?」その言葉がきっかけで、私は初めて「大学進学」という選択肢を意識し始めました。もちろん、すぐに決めたわけではありません。大学って何?どういうところ?そこからのスタートでした。
調べて、相談して、考えて、悩んで――。先生や寄宿舎の先生、そして寄宿舎に来ていた現役の大学生たちにも話を聞き、たくさんの情報をもらって、自分の中で少しずつ答えを作っていきました。
最終的に大学進学を決めた理由は、大きく2つです。
1つ目は、担任の「大学に行けば選択肢が広がる。世界は広い」という言葉。
2つ目は、大学生たちのキラキラした姿に「私もそうなりたい」と思えたこと。
もちろん、決断のあとは新たな壁が待っていました。
それは、母を説得することです。母は私に「高卒で働いて安定してほしい」と願っていたからです。
でも、私は本気で大学に行きたい理由を伝えました。先生にも協力してもらいながら、なんとか説得を進め、最終的に「奨学金を借りて自分で返すならいいよ」と了承を得ることができました。
【高校生期 ―教育から支援へ―】
そんなこんなで、高等部普通科(進学コース)を受験することに決め、受験勉強や面接練習に励んでいました。ところが、そんな中で新型コロナウイルスの感染が拡大し、受験の面接は急遽「面接シート(紙)による記入形式」へと変更されました。試験中もマスクを着けたままで、慣れない状況でしたが、これまでの努力の成果を発揮し、無事合格することができました。ちなみに合格発表もネット上での確認になり、友達とその場で喜びを分かち合えなかったのが少し悔しかったのを覚えています。
中学部を卒業し、期待を胸に高等部へ入学。しかし、コロナの影響で4月いっぱいは登校できず、ずっと自宅で過ごすことになりました。大学進学に向けて勉強を進めなければという焦りの中で、学校から出された大量の課題をひたすらこなしていました。でも、先が見えない状況に心が折れそうになりました。「このままどうなるんだろう」「やる気が出ない」と思いながら、課題以外はダラダラとした日々を過ごしていました。
5月になってやっと学校が再開され、そこからは一気に忙しくなりました。授業に大学見学、受験準備…やらなければならないことに追われる日々が始まったからです。私は当初、先生になりたくて、母校の卒業生が進学した教育大学を目指していました。なんとか推薦入試までたどり着きましたが、結果は不合格。あのときは本当に落ち込んで、先生の前で思いっきり泣いたことを今でも思い出します。
それでも、立ち止まってばかりではいられません。「本当に先生になりたいのか?」と改めて自分に問いかけ、「子どもや先生を支える方法は他にもあるんじゃないか?」という新たな気づきが生まれました。そこから視野を広げて他の大学も調べる中で、技大の「支援技術学」という分野に出会いました。「ここでなら、自分なりの支え方が学べるかもしれない」と心が動きました。
そこからは再び気合いを入れて、技大の二次試験に向けて総合問題の勉強や志望理由の深掘り、面接練習に取り組みました。そしてついに合格。しかも、卒業式の予行練習の最中にその報告がされ、全校で祝ってもらいました。恥ずかしさと嬉しさが入り混じった、忘れられない思い出となりました。
【大学1・2年期 ―憧れの大学生活の始まりと青春の1ページ―】
春になり、ついに技大に入学し、期待と不安を抱えながら始まった大学生活です。最初は環境に慣れるのが精一杯で、ホームシックで涙した日もありました。でも、周囲の同期や先輩、教職員の支えもあり、少しずつ自分のペースで進められるようになってきました。
また、大学1年生の学園祭では、アーチ制作やダンスに参加し、仲間と一緒に過ごす時間が週に一度の楽しみになっていました。アーチの片づけのときには思わず涙が出そうになり、それだけ大切な思い出になっていたことを実感しました。終わった後も仲間とのつながりは続き、打ち上げにも参加するような関係に。高校時代には味わえなかった“青春”を、この大学生活で初めて実感できたのは大きな出来事でした。
2年生になると、今度は学園祭実行委員として活動しました。引っ張るのは苦手だから、「補佐」という役割を選びましたが、なんでも屋的な立場だからこそできる柔軟な動きができたと思います。周囲の様子を見て声をかけたり、困っている人をサポートしたりと、自然と自分にできることを探して行動していました。実行委員として1年間走り抜け、学園祭を無事成功させたときには、大きな達成感と共に「これは私の青春の1ページだ」と心から思えました。スマホのアルバムの写真も、まだ消せない大切な思い出のままです。そしてまた、色褪せない記憶として心に刻まれています。
さらに2年生からはスターバックスでもアルバイトを始めました。
マックとはまた違った経験を通して、「聴者の世界」と「ろう・難聴の世界」の間で自分らしく生きるための切り替えの大切さを実感しました。聴者の世界で頑張りつつも、ろう・難聴の仲間と過ごす時間は、自分をリセットできる貴重な場でもあります。そのバランスをとりながら、今、自分なりの在り方を模索している最中です。
ろう学校で育ってきた自分にとって、大学という新たな環境で得た経験や気づきはかけがえのないものになっています。だからこそ、改めてこの大学に進学して本当に良かったと心から思っています。
【大学3年生(現在)―就職活動と私―】
そして、季節はまた巡り、私は大学3年生になりました。今年は、いよいよインターンシップや企業説明会など、就職活動が本格的に始まる年です。これまで大学で培ってきた経験や学び、そして人とのつながりを糧にしながら、「自分にとって最もやりがいのある仕事とは何か?」を考える毎日を過ごしています。
就職活動は、人生の大きな選択の一つです。もちろん不安もあるけれど、それ以上に、これまでの2年間で得たもの——人との出会い、学園祭の経験、アルバイトで得た学び、自分の長所への気づき——をしっかり活かして、納得のいく選択をしたいと思います。そして、自分らしく、幸せな仕事人生のスタートを切りたいと思っています。
【今後の展望 ―将来と信念―】
大学4年生では、「自分のためにもなり、他の人のためにもなる」卒業研究に取り組みたいと考えています。例えば、これまで関心を持ってきた「支援技術」や「情報保障」の分野で、ろう・難聴の当事者としての視点を活かした研究を通じて、社会に還元できる何かを残したいです。
そうした具体的な目標(ミクロな目標)に加えて、もっと大きな視点(マクロな目標)も忘れたくありません。私は、これからも自分の信念に従って、たくさんの出会いに感謝しながら、心のこもった人生を歩んでいきたいです。人との関わりやつながりを大切にし、日々を丁寧に生きていきたいと思います。
私が大切にしている信念は、主に3つあります。
1つ目は、宮沢賢治の言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。私は周囲の人を笑顔にしたり、喜ばせたりすることに幸せを感じます。だからこそ、社会全体の幸福や平和を重視するこの言葉に強く共感しています。
2つ目は、『論語』の「親しき仲にも礼儀あり」。どんなに親しい間柄でも礼儀を大切にすること。それは相手への思いやりでもあり、感謝の気持ちを忘れずに接することにつながります。この姿勢は、私が人と関わる上でずっと大切にしていきたい価値観のひとつです。
3つ目は、ソクラテスの「善く生きる」。私は、「今この場で、自分にとって一番よい行動ってなんだろう?」と考える癖があります。それが自分を成長させてくれるきっかけにもなっていますし、人生を有意義なものにしてくれています。だからこそ、この言葉には、自分の生き方の指針として深く共鳴しています。
これらの信念を心に留めながら、私は私らしく、焦らずゆっくりと、自分にしか生きることのできない「私だけの人生」を歩んでいきたいと思っています。
【大学での学び】
「大学に入って本当によかった。」これは、私が入学してから今もずっと抱き続けている思いです。
技大での学びには、一般大学ではなかなか得られない「ろう・難聴についての学び」があります。しかしそれ以上に大きいのは、「ろう・難聴者としてこれからどう生きていくのか」をじっくり考える時間があることだと思います。他大学に通う聴覚障害学生は、日々のコミュニケーションに苦労し、毎日を乗り越えるだけで精一杯な部分もあるだろうと想像します。しかし技大では、多様な情報保障が整っており、授業や生活の中で双方向のコミュニケーションを取ることができます。さらに、ろう・難聴について知識を深める講義や、聞こえない仲間や先生と気軽に語り合える環境もあります。だからこそ、自分自身や「聞こえない」ということと向き合い、自分の生き方を考える時間が自然と生まれるのです。これこそ、技大ならではの魅力だと感じています。
大学生活そのものから得られる学びも多いです。
高校までとは違い、大学生には自己管理が求められます。時間の使い方や生活のすべてを自分で決めるからこそ、失敗もして学ぶことも多いです。アルバイトやサークルを通して人と関わる経験、金銭管理や家事、健康管理といった生活力を養うことも、大学生活の大切な学びの一部です。技大は少人数教育で、先生にすぐ質問できたり、グループワークに取り組んだりできる環境が整っています。さらに、手話や音声認識、文字情報、口形、配布資料、遠隔通訳や手話通訳など、学生一人ひとりに合った方法で情報が提供されています。これも、日本で唯一「聞こえない・聞こえにくい人、見えない・見えにくい人だけが入学できる大学」である技大だからこそ可能なことです。
加えて、支援技術学を学べることも大きな特徴です。支援技術学とは、障害当事者自身が自分の視点を生かして、社会に役立つ技術を学ぶ分野です。私は支援技術学コースに所属し「支援とは何か」「支援するとはどういうことか」「誰かを支える技術とは何か」「自分の視点を活かして何ができるのか」を多角的に考えながら学んでいます。
こうした環境の中で、私が大学で得たものを整理するならば、
●自分と向き合い、考える時間
●多くの人との出会いや対話
●大学での専門的な学び
これらに尽きると思います。
大学生活を通して自己理解が進み、多様な価値観に触れることで、視野がどんどん広がっていきました。高校までの世界では考えられなかった新しい道も見えるようになりました。
特に大切なのは、きこえない仲間との出会いです。同年代の友人、先輩、後輩、先生――その存在は一生の宝物だと思っています。共通の悩みを共有したり、互いの解決法を聞いたりしながら、自分だけの答えを探していけます。「自分はひとりじゃない」と思えることは、生きていく上で何よりも大きな支えになります。そのことを実感できるのも、技大の良さのひとつです。
そして最後に伝えたいのは、「全ては自分次第」ということ。自分の人生は、自分で決め、作っていくものだと思います。誰かが敷いたレールに乗るのも選択肢のひとつかもしれないが、自分で選び取った道を歩むことこそ、自分自身のためになります。技大での学びを通して、私はその確信を深めることができました。
私のこれまでの大学生活で得た気づきや学びが、少しでも誰か一人でも将来の進路を考えるヒントになってくれれば嬉しいです。