米国大学院への留学、地域から国際に広がるグローバルな人権擁護活動を経て、筑波技術大学障害者高等教育研究支援センターで教鞭をとられるきこえない教員、大杉豊教授にお話を伺いました。本学でのろう者学関連の授業におけるエンパワメント指導をはじめ、学外の教育機関や地域社会との垣根を超えた関係作りなど、幅広い活動について語っていただきました。大杉教授へのインタビューは前編と後編の2回に分けてお送りします。
ろう者学での学びを通じて、自分らしいキャリア人生を歩んでもらうために
——本学でのろう者学関連の取組みについて、お話いただけますか。
本学は、言語やコミュニケーション手段、文化、育った環境や受けた教育など、多様なバックグラウンド(背景)を持つ学生が全国各地から集まっています。様々なニーズを持つ学生が一緒に学び、卒業後も、聴覚障害者として社会参加を果たしていく時に役立てられる知識と技術を身につけることを目的に、ろう者学関連の授業を提供しています。
——ろう者学関連の授業とは、どういうものがあるのでしょうか。
「ろう難聴者の社会参加」では、過去に障害のある人が差別や偏見を受け、社会からなかなか認めてもらえないという時代の中で、聴覚障害のある人たちはどのように活動してきたのか、どのように工夫をして乗り越え、道を切り開いてきたのか、先人たちの生き方に学ぶプロセスを丁寧に踏んでもらうようにしています。また、聴覚障害のある人が社会参加を果たしていく中で、手話通訳・情報保障や電話リレーサービス、福祉制度など社会的資源の活用についても学んでもらっています。
他にも、「きこえない人の生活文化」や「自分史」などを通じて、聴覚障害のある人が持つ生活文化や様々な働き方などについて学ぶことで、自分自身を見つめ直し、自身の障害について客観的に捉えるプロセスを丁寧に踏んでもらうようにしています。
——これらの授業を通じて、どんな学びが得られるのでしょうか。
ろう者学関連の授業を通じて様々な知識や技術を身につけることで、自身の障害について客観的に捉え、自己分析し、自分にできることとできないことを把握し、周りに的確に伝える力を磨いて欲しいと思っています。4年の大学生活の間に、自身と同じ聴覚障害のある同級生や先輩後輩との交流、そして聴覚障害のある教員たちと接点を持たせながら、いかに自分の強みを生かしていくか、いかに自分の弱みをカバーしていくか、学生個々人の内在する力や思いをうまく引き出していく、いわゆるエンパワメント指導に力を入れるようにしています。
——キャリアとの関わりについてはどうでしょうか。
大学3年か4年生頃になると就職活動が始まり、就職希望の企業などとの面接があります。企業側は、大抵聴覚障害のある人が面接を受けに来ることを事前に把握しています。会社に入った後に、どのくらい周りとうまくコミュニケーションがとれるのか、どのくらい周りと一緒にうまく仕事をしてもらえるのか、会社にどのように貢献してもらえるのか、というようなことを人格面も含めて、面接の際に色々と見ながら判断しています。自分は、きこえなくてもなんでもできる、きこえる人と同様にできるということを一生懸命自己PRするのは良いことだと思います。
ただ、面接に合格して就職できたとしても、職場で例えば電話によるやりとりができなかったり、周りとうまくコミュニケーションが取れず輪に入れなかったりと、様々な壁にぶつかった時に困るのは、結局自分です。そのようなことにならないようにするためにも、面接の時に、ただできますとだけ伝えるのではなく、障害があることでできることとできないことをきちんと整理した上で、自分で解決する方法や、周りにサポートして欲しいと思うことを丁寧に説明できるようにする、つまりセルフアドボカシースキルを学生時代の間に身につけてもらうことも心がけています。
——そもそもろう者学とはなんでしょうか。
本学では、以前は聴覚障害学関連の授業のみを提供してきました。「聴覚障害学」と「ろう者学」、この2つは似ているようで、内容はもちろん視点も異なります。「聴覚障害学」は、きこえの状況や耳がきこえないことそのものに焦点を当てた上で、社会参加を果たしていく技術を習得することを目的としています。
それに対して、「ろう者学」は、きこえないことを受容し、きこえない人がどんな生活を送り、手話などを含むコミュニケーション面も含めて、どのような形で社会に参加しているのかを体系的に学ぶことを目的としています。聴覚障害のある人(きこえない人、きこえにくい人)やその周りの人たちがたどってきた歴史をはじめ、言語や文化、教育、人権など多様な学問領域を横断しながら再考していくものでもあります。
1980年にボストンでろう者学の講義が開講された後に、1983年にカリフォルニア州立大学ノースリッジ校において、全米で初めて学科として「ろう者学(Deaf Studies、デフスタディーズ)」学科が開設されました。きこえない・きこえにくい人のコミュニティにとって長年の夢であったろう者学科開設の実現に尽力した中心人物は、自身もきこえないローレンス・フライシャー博士です。
次第に、欧米各地を中心として、聴覚障害のある学生に特化した大学(ギャローデット大学)や、聴覚障害のある学生が多く在籍する大学(ロチェスター工科大学など)をはじめ、教育関係者や支援技術者などを養成するコースが設置されている一般大学においても、「ろう者学(Deaf Studies、デフスタディーズ)」に関するカリキュラムが取り入れられるようになっていきました。
海外でろう者学を学ぶ学生たちのバックグラウンドも、障害のあるなしや国籍、生まれ育った文化や使う言語、年齢などは様々です。お互いがそれぞれの違いを超えて、手話言語やろう文化、ろう教育、コミュニケーション、支援技術などについてアカデミックに学び、卒業後はそれぞれの専門分野で活躍する人材となっています。
手話通訳を養成するプログラムが組まれているところでは、多くのきこえる学生さんが学んでいます。近年は、国内の聴覚障害者もあらゆる場面で活躍するようになってきており、それに比して手話通訳といった情報保障の出番も増え、重要視されるようになってきています。他にも電話リレーサービスの通訳オペレータなど、最近は情報保障に対するニーズが増えてきている傾向にあります。そういう意味でも、日本でろう者学関連の取組みを拡げていく意義は大いにあるのではないかと思っています。
——本学卒業生は、ろう者学についてどのように感じておられるのでしょうか。
先ほども申し上げましたように、障害があることでできることとできないことをきちんと理解し、社会システムやその成り立ちなどを認識する知識や技術を身につけるのが、ろう者学のねらいでもあります。
社会参加を果たしていく中で、本学で得たろう者学の学びはとても役立っているという声も多くいただいています。卒業生の1人で、現在は障害者高等教育拠点事業(※1)の事務スタッフをされている平井望さんより、ろう者学について感想を寄せてくださいましたので、紹介させていただきます。
「ろう者学の役割」平井望
東京オリンピック・パラリンピックが終わり、あっという間に10月も半ばになりました。私は、ろう者学の仕事に携わってもうすぐ半年になります。この仕事をしていると、いつも思うことがあります。「今の学生は恵まれている」と。
私は、2005年に本学の前身である筑波技術短期大学を卒業しました。当時は「聴覚障害学」という講義があり、私にとって大変興味深い内容で講義を毎回心待ちにしていたことをよく覚えています。しかしながら、きこえない人にとってロールモデルとなる先輩からお話を伺う機会がほとんどなく、学生だった私は社会に出ることへの不安が常につきまとっていました。
卒業後、「聴覚障害学」の名称が「ろう者学」に変わり、社会で活躍しているろう者の講演を定期的に聴くことができるようになりました。加えて、新型コロナウイルス感染拡大防止に伴いオンデマンド形式で限定公開を行っているため、申し込めばいつでも先輩たちの貴重なお話を聴くことができます。講演を聴いた方々から「自分の将来を真剣に考えるようになった」「大変励みになった」など、さまざまな感想をいただいています。
ろう者学トークに限らず他のコンテンツも含めて、ろう者学は、社会人だけでなく海外留学や大学院の経験も持つ私からみてもためになる内容ばかりで、「今の自分はこれでいいのか?」と初心に返ります。そして、目標を見直し新たな挑戦を始めます。
私の考える「ろう者学の役割」とは、きこえない学生の可能性を無限に広げることであり、人生の羅針盤になっているとも言えるのではないかと思います。
昨年度(2020年度)のろう者学トーク(全10回)は視聴終了となっておりますが、特別期間を設けご希望の方は視聴できますので、ぜひご視聴ください。
https://www.deafstudies.jp/info/news0179.html
出典:辻田望. ろう者学の役割. 共同利用拠点事業メールマガジン第65号
(※1)障害者高等教育拠点事業は、2010年に文部科学省より教育関係共同利用拠点として認定を受けたものである。本学がこれまでに蓄積してきている教育や支援に関するノウハウやリソースを全国の高等教育機関などに提供することで、障害理解や研究を推進し、ユニバーサルな社会実現に向けた様々な取組みを展開してきている。「ろう者学」以外に、情報保障支援技術やキャリア発達支援、体育・スポーツ教育、語学教育などがある。