障害者スポーツ(パラスポーツ)の発展と共に歩んできた人生(前編)
教員  

障害者スポーツ(パラスポーツ)の発展と共に歩んできた人生(前編)

国立のろう学校教員を経て、筑波技術大学創設当時から定年退職されるまで、障害者高等教育研究支援センターで教鞭をとってこられた及川力名誉教授にお話を伺いました。ろう学校教員時代をはじめ、本学教員時代、障害者スポーツやろう者のスポーツ、デフリンピックとの関わりや現在の様子など、たくさん語っていただきました。及川名誉教授へのインタビューは前編と後編の2回に分けてお送りします。

Q.ご自身の専門についてお聞かせください。

筑波大学附属聾学校(現筑波大学附属聴覚特別支援学校)での教員時代は、幼児や子供の体の発育、運動の発達を中心に取り組んできました。本学に変わってからは、ろうの大学生の運動の力の研究に関わってきました。

 

Q.筑波大学附属聾学校時代の思い出について、お聞かせください。

大学を卒業した後は大学院に進む予定でしたが、当時幼児の教育で日本でも有名な体育の先生から、「ろう学校の先生が1人辞めちゃったんで、1年間でいいから行ってくれないか」って言われたのです。私も迷ったのですが、「どういうところですか」って聞いたら、耳のきこえない子供の学校だっていうことで、ちょっと興味を持ち、1年間ならいいかなと思って行ってみたら、結局17年間いることになりました。

筑波大学附属聾学校に入った当初は、教育の仕方を教わることはありませんでしたので、最初の頃は黒板にいろいろ書いたり、口でしゃべったりしていました。そしたら、生徒たちから質問されたのですが、何を言っているのかはっきりと聞き取れず、「黒板に書いて」と言ったのです。そしたら、「先生が言ってることがわからない」と書かれちゃって、かなりショックを受けました。それから、手話の勉強を1年間ぐらいして、なんとか生徒の言っていることもわかるようになってきました。

ろう学校時代は、いろいろなことをやりました。大学時代はサッカーをやっていましたが、ろう学校にはサッカー部がなかったので、代わりに野球部の監督をやっていました。一つの思い出として、県の秋の大会でしたけども決勝まで進んだことがあります。相手も強い学校で、ピッチャーもパーフェクトゲームぐらいよくて、我々のピッチャーもノーヒットノーランみたいなすごく良いチームでした。決勝では残念ながら負けてしまいましたが、当時は新聞に記事として取り上げていただいたりしました。

障害者スポーツ(パラスポーツ)の発展と共に歩んできた人生
手話をしながらインタビューに答えられる及川力名誉教授

授業も真面目にやっていましたが、授業後は毎日のように土曜日も日曜日も野球ばかりやってました。1年間で、ろう学校の試合や県の軟式野球の試合など、公式戦も含めて70試合ぐらいやりました。県の大会に参加するようになったのは、自分が野球部の監督になってからです。初めの頃はもうボロ負けでしたけど、生徒たちも私もやっぱり聞こえる学校には負けたくないっていう気持ちがありましたから、毎日一生懸命練習していました。初めは7対0とかそんな感じで負けていましたが、次第に追いついて逆転するようになりました。ある大会の準決勝で破った相手の監督から『「お前が負けた学校は耳がきこえないんだろう。どうして負けるんだ。」って言われた』と聞かされたこともあります。生徒たちも、本当に頑張って練習をやっていたと思います。

ろう学校での経験は、本当に勉強になりました。一つの学校の中に、幼稚部、小学部、中学部、高等部、専攻科まであります。私は高等部にいましたが、中学部や専攻科の授業と同時に小学部や幼稚園の授業も一番多い時で週に2回ほど、教えていました。中学部や高等部の生徒に対しては「気をつけ、右へならえ」とやっていたのが、その次の授業では「並びましょう、並びましょう」と幼稚園の授業をやっていたわけです。後から考えると、面白いことをやっていたなと思います。

もう一つよかったのは、当時は授業が終わった後の夕方5時ぐらいになると先生方が集まって「ちょっと一杯」というのがありました。当時、私は高等部の教員でしたが、幼稚部や小学部の授業も担当していたので、その頃の幼稚部の先生とか小学部の先生からいろいろと教えてもらうこともできました。なるほど、子供ってこういう風に育ち、いろいろな面があって、育って大きくなってくるんだなってことがよくわかるわけです。どこの部(幼稚部、小学部、中学部、高等部)がとても難しいとか、言葉の問題や発達の問題など、それぞれの子供たちが育ってくる経過を把握することができました。

また、ろう学校の先生になってから気付いたことがあります。当時、私は千葉に住んでいたので、市川にある学校まで電車で通っていました。ろう学校の教員になる前は、電車の中できこえない子が手話で話していてもあまり気づかなかったのです。それがろう学校の教員になった後は「ああ、この子も耳がきこえないんだ」、「この子もそうだったんだ」って気づけるようになりました。

 

Q.本学教員時代の思い出についてお聞かせください。

平成元年あたりに、当時筑波大学附属聾学校の教頭先生をしており、本学が4年制になる前の短期大学の設立を進める責任者だったその方から、その短期大学の教員募集をしているから応募してみたらどうかと声がかかりました。その後に採用していただいて以降、20何年間本学でお世話になりました。大学に変わった当初は、建物もなく、学生もいませんでした。最初の頃は筑波大学の建物を借りていましたが、筑波大学の中でも5回ぐらい引っ越しました。引越し4回目の時に今の事務室がある建物ができて、最後に校舎棟ができ、引越し最後の5回目でようやく自分の研究室に入れることになりました。

学生受け入れの一期生の入学式はまだ講堂や寄宿舎ができていませんでしたので、現在の学生係がある前のコミュニケーションホールで、石原保志現学長と一緒に手話通訳をした記憶があります。また、学生は入学式終了後に一旦帰省(帰宅)し、確か6月あたりに寄宿舎ができてから入居して授業が始まったと思います。昔、放送大学の広瀬先生の講義が流れた時に、テーマは「日本の障害者(高等)教育」に関してだったかと思いますが、このときの技短の入学式の様子が放送され、それに私が手話通訳として写っている様子を見てびっくりした記憶があります。

障害者スポーツ(パラスポーツ)の発展と共に歩んできた人生
大学創設25周年式典会場で、井上亮一先生と(2012年)

最初は、3年制の筑波技術短期大学、それから4年制大学になりましたが、自分の印象としては落ち着いて授業をやってる時間が少なかったように思います。短期大学から4年制、それから大学院、といろいろと変わる中で対応するのに結構忙しい日々でした。センター長をやっていた時は、センターの大学院を設置する責任者でもあったのですが、うまくいかないことも多くて病気にもなったりといろいろなことを経験したと思います。楽しかったといえば楽しかったんですけどもとにかく忙しかったいう思い出の方が強いです。初めての障害者の短期大学だったので、いろいろなことを試しにやってみたりしていました。

授業の中で、大学から筑波山頂まで歩くという授業を10年くらいしました。学部の先生方も協力してくれて一緒に歩いた記憶があります。20km弱で行程中85%くらいは平坦ですが最後の15%はケーブルカーの下をまっすぐ山頂まで歩くのでみんな大変だったと思います。苦労して歩いた学生には忘れられない思い出になったのではないでしょうか。

障害者スポーツ(パラスポーツ)の発展と共に歩んできた人生
南蔵王キャンプにて(2012年)

また海外研修の一環として、アメリカに3回ほど学生を連れていくこともありました。米国では、ギャローデット大学NTID、西海岸などいろいろなところを見学させてもらいました。NTIDは私立ロチェスター工科大学の中の一学部としてあるわけですが、アメリカの教育省がお金出してやっていたのです。日本の教育制度からはちょっと考えられにくいと言うか、考え方の柔軟性があるところには驚かされました。NTIDの先生は手話ができるのは必須で、他にも体育の授業の中にも手話通訳の人がいました。また、体育館の中でソフトボールやっていたのですが、硬いボールを打って壁にボールをぶつけてやっていました。日本だったらとても認められないし、日本とアメリカで考え方が違うのかなと思いました。あと、大杉先生ともロチェスターへ行った時に初めてお会いしました。その時、彼はまだ学生でまだ若かったですね。今も若いですけど。

ギャローデット大学ですが、大学院は別としてろう者のための大学でもあります。前もってろう者のスポーツの歴史とかを勉強していたのですが、昔キャンパス内にあるグラウンドで国際大会をやっていたこともあり、こんな狭いところでやったのかと思ったこともありました。また、「手話は言語である」と世界で初めて宣言されたウィリアム・ストーキー先生にもお会いしました。当時の学部長の先生の家に招待された時に、ウィリアム・ストーキー先生を紹介されました。その時は飲んでいる席だったので、特に言語がどうなんていう話はしませんでしたが、教育の話や、あとはウイスキーの話をしたと思います。また、その頃ギャローデット大学ではデフプレジデントナウ(Deaf President Now)という、ろうの学長の選出を求める学生運動が起きた頃で、学長はろう者でした。あと、これは笑い話になりますが、大学の中にパトカーが走っているのを初めて見てアメリカは本当に怖いところだと思いました。

障害者スポーツ(パラスポーツ)の発展と共に歩んできた人生
ウィリアム・ストーキー先生(中)を囲んで、及川力名誉教授(左)と石原保志現学長(右)


取材、取材記事・動画撮影編集:小林洋子

取材撮影:安啓一

動画撮影機材協力:T-TAC事務局

Profile

及川 力(おいかわ ちから)

及川 力(おいかわ ちから) (障害者高等教育研究支援センター名誉教授)

東京教育大学(筑波大学の前身)体育学部体育学科卒。
筑波大学附属聾学校教員を経て、筑波技術大学の前身である筑波技術短期大学が学生の受け入れを始めた1年前の1989(平成元)年4月に助教授として着任。以降、障害者高等教育研究支援センター教授、同センター長を経て、2015年に定年退職。以降現在に至るまで、茨城県障がい者スポーツ指導者協議会会長をはじめ、地域社会における障害者スポーツの発展に貢献するなど、幅広く活動中。
専門は、障害者スポーツ、聴覚障害体育、聴覚障害者の体力・運動能力

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